2012年4月12日木曜日

出島 - 【日本の歴史巡り】


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出島は日本の歴史で勉強しますので、独特の扇形をした出島を教科書で見たことのある人も多いでしょう。現在は出島の周辺も埋め立てられてしまい、その形は残っていませんが、少しずつ再現されていっています。

出島の概要

出島は、江戸幕府が鎖国の一環として1,636年に築いた人工の島です。形は貿易の発展を願う末広がりの扇形をしています。面積は約1.3ヘクタールで、1,641年から1,859年の長い間、オランダ貿易が行われていました。作られたのは1,634年から2年間かけて行われ、江戸幕府が長崎の有力者に命じて、ポルトガル人を管理する目的で造らせました。長崎の十数人の有力者によって築造費が出資されましたが、土地使用料として、ポルトガル人が有力者に年間80貫を支払う形をとっていました。ポルトガル人から代わり、オランダ人が住むようになってからは現在の価値で約1億円に相当する、55貫に引き下げられています。平和な世の中になったのに対し、貿易の際の検疫が重視されたのでしょう。

2012年4月11日水曜日

抗うつ薬で暴力など42件 厚労省が因果関係調査! - ラストホープ 健康・美容かけ込み寺 - 楽天ブログ(Blog)


みなさん、こんにちは。

最近、日本の売国奴どもが暗躍し、マスコミでも騒いでいますで、不快極まりない毎日を過ごしていました。

アメリカへ日本を売り飛ばすことで利益を得ている輩は、小沢を批判しているもの全員です。

先日、ラストホープともいうべき日本の利益を考えられる立派な人物の話を聞いて涙がでるほど嬉しかったです。

その人の名前は田中真紀子さんです。

この方は、電波売国奴で卑しい田原総一郎という卑屈な男の詭弁(どうにかしてでも小沢を引き摺り下ろそうとしていました)にも臆せずに、堂々とアメリカが日本の漆間(警察、検察庁のトップ)やマスコミを使って、日本の独立を阻止していることを理路整然と述べられていました。立派でした。

さて、話題は変わります。

米国ではSSRIが原因とされる殺人事件が、多数裁判となっています。日本ではまったく取り上げられていませんが、今回やっと厚労省が因果関係を調査するようです。

(転載開始)

抗うつ薬で暴力など42件 厚労省が因果関係調査

 抗うつ薬の「パキシル」など4種類のSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)を服用した患者に、他人に暴力をふるうなど攻撃性が高まる症状が表れたとの報告が2004年から昨年秋までに計42件、医薬品医療機器総合機構に寄せられ、厚生労働省は7日までに、因果関係の調査を始めた。

 メーカー側に見解を求めるとともに近く専門家の意見も聞き、攻撃性についての注意書きを盛り込む方向で、添付文書の改訂を指示することを検討する。

 厚労省によると、報告があ ったのはパキシル、ルボックス、デプロメール、ジェイゾロフトの4社4製品。42件のうち「人を殺したくなった」など他人を傷つける恐れのある言動をしたり、実際に暴力をふるったりした症例が19件。残る23件も、興奮して落ち着きがなくなるなどの症状が表れたという。

 因果関係は不明だが、うつ病を併発した認知症の70代の男性がパキシル服用後に妻を殺害するなど、刑事事件に発展したケースもあった。

 SSRIは、脳内の神経伝達物質セロトニンの濃度を調節して神経の活動を高める薬。三環系と呼ばれる従来の抗うつ薬よりも副作用が少なく、うつ病治療に広く使われており、国内でも推定で100万人以上が使用しているとみられる。

 厚労省は「うつ病以外の患者にも使われていなかったかなど慎重に調べたい 」としている(共同通信社)。

(転載終了)

私が経験したうつ病患者でSSRIで自殺を図ったものは3名ほどおります。他殺はまだ経験ありません。自殺を図った女性の話を聞くと、服薬1週間で興奮状態が続き、錯乱するようです。このときは、人を殺しかねない状態だったといいますから、スクールシューティングにSSRIが関係している例はかなりあるものと思われます(コロンバインの事件などは事件の首謀者が事件前にSSRIを服用していたことが判明しています)。

これは医学的にもactivation syndromeとして知られています。またチーズやワインとの食べ合わせでセラトーニンシンドロームという興奮、高血圧、錯乱が起こる抗うつ薬もあります。

SSRI、三環系抗うつ薬は作用機序としてはコカインとまったく同じで、神経の伝達部位に興奮性のノルエピネフリンや環状のコントロール物質であるセラトーニンを増加させるものです。

おそらく米軍では兵士の給食に混ぜたり、他の医薬品といって人体実験をしているはずですので、危険性は承知のはずです。

さて、中川元財務大臣が盛られた薬はSSRIではなく、おそらく向精神薬(メージャートランキライザー:統合失調症、脳細胞死による不穏などの本物の脳の病気に使用されます)と推測しています。

一部には抗不安薬や睡眠薬などのマイナートラ� ��キライザー(ほとんどがベンゾダイアゼピーン系)ではないかといわれていますが、マイナートランキライザーと酒では眠くなるだけです。

なぜ中川元財務大臣が堂々と疑義を呈さずに辞任してしまうのかが理解できませんでした。今や黒幕の漆間のオッサン(このオッサンが政治家や有力者の個人的ファイルを一元管理して、いつでも米国のゴーサインがでればマスコミを通じて脅しをかけられるようにしている:山口組の現在の最高実力者と同じ。彼も昔名古屋県警の人間の家族構成からすべてPCで管理していたことは有名)があぶりだされてきたのですから、これから竹中・小泉を含め、アメリカに利益を供与することで国民の税金を無断でむしりとり着服した輩が逮捕されることでしょう。売国奴を掃除して早くすっきり� ��たいものです。



みなさん、こんにちは。

今日は訴訟社会アメリカで面白い事例がありましたので、紹介したいと思います。

 (転載開始)

俺の腎臓を返せ!―腎臓を提供した妻が不貞に走った元夫の心境

 1月9日付のAFP通信によると、ニューヨーク州のロングアイランドに住む外科医が、離婚した元妻に対し、8年前に腎移植に提供した腎臓を返すか、もしくは賠償金150万ドルを支払えという訴訟を提起したというのです。

 元夫の主張は、「元妻に腎臓まで提供したにもかかわらず、彼女は不貞に走り離婚を申し立てた。このような忘恩行為によって、心にぽっかりと穴が開いたままだ」というものです。

  この記事によると、元夫の弁護士も「理屈の上では腎臓の返還を求めているが、もちろん、彼は本当に腎臓が欲しいわけではなく、その価値を認めさせたいの だ」と説明しています。元夫の本音は訴訟における主張とは裏腹に、「体の傷なら治せるけれど、心の痛手は癒やしない」という沢田研二のかの名曲『時の過ぎ ゆくままに』の文句のようなところなのでしょう。

 いくら米国が訴訟社会だといっても、裁判所が 元妻に「元夫から提供された移植腎を返還せよ」という判決を出すとは思えません。仮に、そのような結論になるとしたら、シェークスピアの『ベニスの商人』 のポーシャ裁判官のように、「元妻の腎臓を元夫に戻すのならば、元夫は元妻の血液を一滴もなしに戻してもらわなくてはなりません」なんて大岡裁きが飛び出 すかもしれません(日経メディカル)。

(転載終了)

 

臓器移植は問題の多い対処療法です。

レシピエントは臓器移植後も同じ生活パターンを繰り返していると、やがてせっかく頂いた臓器も廃絶してしまいます。実際、このような事例が日本でも多いようです。

ただ、この夫は、近代国家の住人にも関わらず、あまりにも感情的な訴えをしているように思います。

腎臓を提供したのも自分の意志なのですから、妻と離婚することとは無関係でしょう。

 気持ちはわからないでもないですが・・・・・・・・

 

 

 

 


みなさん、こんにちは。

1月ももう半ばになりました。

今年は、冷え込みは例年どおりで温暖化の影響はまったく感じられません・・・・・

さて、最近空咳が止まらないのは、米軍が都市でばらまくケムトレイルのせいでしょうか?

 

 

 (転載開始)

 

2012年4月9日月曜日

患者さんの体験談 第6回|腎臓病・透析に関するお役立ち情報「腎臓サポート協会」


昨年1月に、とりあえずCAPD10年の区切りだからとシャントをつくり、今年の1月に血液透析に移行しました。いまは、週3回の血液透析と一日1回の腹膜洗浄をしています。洗浄液を調べながら、カテーテルを抜く日を決めるみたい。でも、そろそろウズウズしてきて、12月ぐらいに国外への脱出を企てています。10年前にCAPDを導入したときも、半年目に、まずは国内ということで沖縄に行って、1年たたないうちにハワイに行きましたから。

で、次は本土進出で西海岸、次に東海岸のマイアミ~キーウェストという具合。遠いところが続いたので、貯まったマイレージで、近場のソウルにでも行こうとしたら、担当の先生が「どこか具合でも悪いんですか?」なんて。海外旅行では、医療器具などを機内に持ち込むために書類をいくつも� �らなくちゃならないし、先生も最初は驚きの連続だったでしょうね。いまはスラスラ記入してくれますが。

2012年4月8日日曜日

海外旅行シリーズ第6回


海外旅行シリーズ第6回


     
         シリーズ第6回目
シリーズの第4回目〜第6回目は、カナダです。 
カナダは、バンクーバーからナイアガラまで 、7000Kmの旅です。第6回目はレイク・ルイーズからカルガリーを経て、ナイアガラへ入ります。   


                             1.カナダの概要                                                                    

              

 
   


(1)  カナダは、世界第二の大きな国

  カナダは、太平洋・大西洋・北極海の三つの海に囲まれ、南はアメリカ合衆国と国境を接しています。
  国土は10の州と2つの準州に分かれています。各州は、それぞれ州政府を持ち、それが連合して連邦政府を形成しています。
  昔、イギリスとフランスがこの国に植民地を築いた歴史的経過から、現在でも、英語とフランス語が公用語になっています。
  この国は、東西に長くのびていることから、国内で4時間30分の時差があるので、移動の際は注意が必要です。

(2) 気候と旅行の服装

  広大な国土を持つカナダは、地域によって、気候が全然違うため、旅行の服装には気遣いが必要でしょう。
  バ� �クーバー周辺は、比較的穏やかな気候で、冬も暖かなようですが、夏でも朝夕は肌寒い日もありました。
  山岳地帯のロッキー地方は、夏でも朝夕の冷え込みは、相当なものです。
  オンタリオ州あたりは、夏はかなり暑く感じました。
  服装は、行く地域にあわせて考えるべきでしょう。

(3) カナダへの交通

  日本からは、直行便と米国経由の両方の方法で、入ることが出来ます。
  米国経由の場合、シアトル・ロサンゼルス・ポートランド・デトロイト・ニューヨークなどから乗り継いで入ることになります。
  バンクーバーへ入るには、米国経由の場合、シアトルへ一旦飛ぶということになります。
  PECOとCHIKOはシアトルから、バスで陸路カナダに入りました。ハイウエー沿いの入国手続きなんて初体験!!

(4) その他

  カナダでも、ほとんどの都市のお店では、日本語と日本円が通用しました。
  この国では、チップが定着しているので、忘れていやな思いをしないように注意しましょう。
  それから、大事なことを一つ。カナダでものを買うと、かなり高いTAX(いわゆる消費税)が付きましたが、
  旅行者については、ものを購入した分のみ、国外へ出てから還付してくれる制度がありました。
  カナダ出国の時に、その税金の還付請求書類をもらい、帰国後レシート等を添えて還付請求すると、
  カナダの国税局(というのでしょうネ)から小切手を送ってくれました。
  次にカナダへ行く予定のない人は、銀行に取り立て依頼することになります。
  この� �合銀行の手数料と、還付額と比べてどうするか決める必要がありますが、取り立てたら損になる場合は、
  アルバムにでも貼っておけば記念になると思います。PECOの場合は、2000円ほど得になりました。

ご案内欄へ


 前回に引き続きカナダの旅です。
 今回はカナダシリーズの最終、
 レイク・ルイーズからカルガリー、トロント、そしてナイアガラへ入ります。
 今回のハイライトは、ナイアガラ大瀑布ですが、
 ナイアガラ・オン・ザ・レイクもとても良い町です。
 ご紹介したい写真が多いのに、重くしたくないという矛盾を抱えて……… (-_-;)
 
次回はニュージーランドへ行ってみたいと思います。
 ニュージーランドは、もう少し後までとっておく積もりでしたが 
 またまたリクエストがあって ……… (^_^;)

 (1) レイク・ルイーズの概要

   カナディアン・ロッキーには数多くの美しい湖がありますが、
   最も人気のあるのが、このレイク・ルイーズでしょう。
   この湖は、長さ2.4Km、幅は800m、水深は70mもあるそうです。
   この湖は、氷河の浸食作用によって出来た窪みに氷河の溶け水が貯まって出来た氷河湖です。
   エメラルド・グリーンの湖水はあくまでも澄み切って、そこへビクトリア・マウンティンが影を落とす様は、
   まさに絶景としか言いようがありません。
   この湖のことを現地の先住民であるインディアンは、『小さな魚の湖』と呼んでいたそうですが、
   白人で初めてこの湖を見たトム・ウイルソンは『エ� �ラルド湖』と名付けたのですが、

   後にヴィクトリア女王の娘ルイーズにちなんで、レイク・ルイーズと呼ばれるようになったんだそうです。
   それと、この湖の周辺はとても天候が変わりやすく、ベストな状態での湖を見ようとすれば、
   1泊ではネ〜!! よっぽど運が良くなきゃネ〜!!!!!
   ちなみに、PECO&CHIKOもベストな湖は見れませんでした。 (-_-;)
   
    
 (2)現地への交通

   バンフからレイク・ルイーズへ直接入るバスや列車はないそうです。
   最寄りのレイク・ルイーズ・ジャンクションからでも4km離れており、
   レイク・ルイーズの町というのはありません。
    バンフからは観光バスのツアーを利用するか、レンタカー利用が便利でしょう。
   またはバス(ブルースター社)でジャンクションまで行き、後は4kmをテクル人も居ます。
   体力のある人はバンフから57kmをレンタサイクルでどうぞ。
   
 

  (3) 食     事

    レイク・ルイーズの周りには町がありません。
    したがって、レストランも…………
    でも心配はいりません。ホテル・レイク・ルイーズには、展望が自慢の最上階のレストラン。
    炭火焼き料理のサパークラブ。ロビーラウンジ、屋外のカフェなどがあります。
    どうしても町のレストランでと言う人は、4kmテクッてジャンクションへどうぞ!!    

 

  (4) ショッピング

    これもどうしてもお買い物という人は、ホテル内でどうぞ。
    ホテル内のお店には、ブランドものもありますし、お土産ぐらいはGET出来るでしょうが、
    まあ、ここで買い物しようなんて気の起きる人は、そうはいないでしょう。
    それよりも、美しい湖を眺めながらTEA ROOMでお茶の方が思い出になりますよ!!
    


  【ホテル・レイク・ルイーズ】

     日本人観光客お馴染みのホテルです。
     カナダの観光ポスターには必ず登場するので、誰でも『ああ、あれか〜』ですよね。
     ビクトリア・マウンティンとレイク・ルイーズを専用のお庭にするという贅沢なホテルです。
     ここのTea Roomで提供されるティーサービスのサンドウィッチは絶品!!

  【レイク・ルイーズ】

     記念写真の定番は、ホテルの前庭に出て、荷車(荷車と言うんでしょうか?)と湖を背景に。
     また湖岸へ出て、ちょうど山あいに入るように立って。
     要するに、絵はがきか観光ポスターの図柄になるわけですね!!
     それと、出発後に聞いたのですが、左側にあるボートハウスの所まで行けば、
     ベストショットが撮れるらしいのですが、聞いたのが出発してしまってから!!
     ウーム!! 残念!!
 こりゃ〜 もう一遍行かなくちゃ!! (^_^;)

2012年4月6日金曜日

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2012年4月4日水曜日

第14SS武装擲弾兵師団 - Wikipedia


第14SS武装擲弾兵師団 ガリーツィエン(ウクライナ第1)(ドイツ語:14. Waffen-Grenadier-Division der SS (galizische Nr. 1))は、武装親衛隊の師団である。1943年、ウクライナ西部のガリツィア(ドイツ語名:ガリーツィエン、ウクライナ語名:ハルィチナー)からの義勇兵で編成され、ブロディをめぐる戦闘で大損害を受けた後、再編成されてウクライナ国民軍第1師団と改名、連合軍に降伏するまで、スロバキア、ユーゴスラビア、オーストリアで作戦任務に就いていた。

第一次世界大戦終結によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、ウクライナ人が住民の多数を占めていたガリツィア東部はポーランドの一部と化すのを嫌い、西ウクライナ人民共和国としての独立を宣言した。しかしポーランドはこれを軍事力でたたき潰し、ガリツィア東部はポーランド領となった。戦争中、ガリツィア東部のウクライナ人は民主主義者が穏健派を、民族主義者が強硬派を形成し、後者はウクライナ民族主義者組織(OUN)を結成し、多数派を占めていた。

その後OUNは分裂、ステパーン・バンデーラが率いる多数派のOUN-Bに対抗すべくアンドリーイ・メーリヌィクが率いた少数派のOUN-Mはアプヴェーアとの緊密な関係を持つ。第二次世界大戦勃発によるナチス・ドイツとソビエト連邦による侵攻により、ポーランドが分割統治され、ガリツィア東部はソビエト連邦のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領土とされたが、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動、ソ連侵攻を開始すると、今度はガリツィア全土がドイツの占領下となった。

ウクライナにおける民族主義組織はその保有戦力でソ連との戦いに参加することをナチス・ドイツに希望していたが、独ソ戦初期においては考慮されなかった。しかし、1943年初頭、度重なる激闘で人的資源が枯渇しつつあったドイツ国防軍はウクライナの民族主義組織を戦力として用いることを考慮するようになり、その後、ウクライナ人師団を編成することを正式に決定、1943年12月28日、発表された。

師団はウクラナイナ中央委員会により組織され、ウクライナのカトリック教会の支持を得た上で、ヴォロディームィル・クビヨーヴィチが率いることとなった[1]。ドイツはウクライナ人を始めとするスラブ民族を劣等民族とする、彼らの人種イデオロギーについて何ら修正しようとしなかったが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーへの忠誠宣言を求めるにあたって、反共主義についてのみとするよう取り計り、また、カトリック教会(ウクライナにおいてはウクライナ東方カトリック教会、もしくはカトリックの信徒が多かった)の従軍牧師同行が認められていた。こういった各種譲歩はドイツの敗色が濃くなり、ウクライナ将兵の士気が下がることを懸念して行われたと推定されている[2]。師団内のナチ化は行われなかった[2][3]。

ドイツ人以外の将兵で構成された師団の編成は、共産主義と戦うという旗の下、以前より行われており、フランス、オランダ、ラトビア、エストニア、クロアチアの義勇兵が参加していた。ウクライナでの師団編成においては、ウクライナ独立へのステップであるとドイツが認めていたため、義勇兵を募ることに支障はなかった。1943年4月28日、ガリツィアで登録された80,000名のウクライナ人で師団を編成することが発表され、1943年12月にはすでに活動可能であったが、1944年5月までは訓練を続けていた。

[編集] 師団編成

師団には、バンデーラ派OUN-Bの極端な国家社会主義イデオロギーに反感を持ち、その軍事組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)と歩調を合わせたくないと考えながらも、ウクライナの為になら戦うという義勇兵も含まれていた。また、師団の世話役であり、最高級将校を勤めたドムィトロー・パリーイウはポーランド第二共和国における小政党の党首であり、彼の同僚の多くが穏健左派政党、ウクライナ国民民主連合(ポーランド語:Ukraińskie Zjednoczenie Narodowo-Demokratyczne、UNDO)の党員であった[4][5]。彼等は戦前、ポーランドとの対話を行い、OUNなどの国家社会主義に反対していた。さらに、師団にはアンドリーイ・メーリヌィク率いる国家社会主義穏健派も加わったが、これはOUN-Bが牛耳るUPAとの釣り合いを取るためと見做されていた。また、師団はムィハーイロ・オメリヤノーヴィチ=パウレーンコ将軍のような追放されてポーランドに避難していたウクライナ人民共和国亡命政府の要員からも精神的支援を受けていた[3]。そして、ウクライナ東方カトリック教会、ウクライナ正教会も師団の支持をしており、キエフ正教会府主教ムスティスラウの息子もそのメンバーであった[3]。

当初OUN-Bは師団が自らのコントロール外にあるということで編成に反対しており、師団がドイツ軍の盾になるだけであると主張した[6]。しかしドイツ側がOUN-Bの干渉を許さず、師団の編成作業が進捗してくると今度はOUN-Bの影響力を確保すべく、軍事訓練を行った多くの構成員を送り込んできた。そのうち幾人かは師団幹部となった。 しかしこの加入によってOUN-Bが師団内で主導権を握ることはなかった[3]。

[編集] 指揮官

SS師団「ガリーツェン」はドイツ人とウクライナ人の高級将校が師団幹部を務めることになり、600名のドイツ将校が師団編成のためにベルリンより派遣された。その内わけは半分がプロイセン東部から派遣されたドイツ人将校、残り半分がオランダ人将校であった。また、過去にオーストリア=ハンガリー帝国軍に所属していた300名(ウクライナ人民共和国軍所属であった100名、ポーランド軍予備役であった100名を含む)のウクライナ将校も所属した[7]。

師団長にはフリッツ・フライターク親衛隊上級大佐、参謀にはヴォルフ・ハイケ親衛隊少佐がそれぞれ着任、師団に所属した連隊の連隊長はドイツ人が勤め、SS第31擲弾兵連隊にはルドルフ・パニア親衛隊大佐、2個警察連隊にはビンツ親衛隊少佐とフランツ・レヒターラー親衛隊中佐がそれぞれ任命された。

[編集] 兵士

兵士には18歳から35歳までの身長165 cm以上の者が選ばれた。OUN-Bのメンバーは加わることが禁じられていたが、前述の通り師団には多くの数が加わっていた。軍服はドイツ国防軍の標準的な物が支給され、右肩にガリツィア地章である獅子と3つの王冠の描かれたものが着用されたが、ウクライナの国章である「三叉戟」の着用は禁じられた。

K・シュルツ親衛隊大尉 はベルリンに以下を報告している。

  1. 80,000名の義勇兵が入隊した事。
  2. 53,000名を受け入れた事。
  3. 42,000が徴集兵のリストから加えられた事。
  4. 27,000名を受け入れた事。
  5. 1,400名に将兵以外の他の任務ならば参加できるかどうか尋ねた事。
  6. 25,600名が契約文書を受け取った事。
  7. 19,047名が仕事より徴集された事。
  8. 13,245名が新人の実数である事。
  9. 1,487名が健康状態から採用に至らなかった事。
  10. 11,578名が訓練キャンプに送られた事。[8]

[編集] 実戦投入

1944年初頭師団は戦線に送られ、初任務に就くこととなった。師団には戦闘経験が欠けていたがその装備は充実しており、大部分の将兵が1943年-1944年期のドイツ徴集兵よりも厳しい訓練を受けていた[2]。

2012年4月2日月曜日

みちとの遭遇〜ほとんど映画日記〜 ドラマ


第8話「マフィンとパンチ(原題:Roe)」
15歳で妊娠した中国系の少女がアラン(ジェームズ・スペイダー)の助けを求めに来る。母親が中絶に同意しないため、少女は裁判所命令を取りたいと訴えるが、中絶反対派のデニー(ウィリアム・シャトナー)は依頼人の意向を無視。アランに補佐を頼まれたシャーリー(キャンディス・バーゲン)も、自らの中絶経験を理由に担当を拒否する。カフェでほかの客に暴言を吐かれたジェリー(クリスチャン・クレメンソン)は、マフィンを投げつけた揚げ句、顔面を殴って気絶させてしまう。さらにケイティ(タラ・サマーズ)の反対を押し切って、自ら公判で無罪を主張する。(FOXより)

<内容>
コーヒーショップで男の鼻を折り、ジェリーが加重暴行で訴えられる。検察側の証人として一緒にいたケイティが召喚されることに。
カールは弁護をしたいと申し出るがジェリーは本人弁護をすると断る。
ケイティは事実をありのままに証言するが、それがジェリーの心証を悪くする結果に。
裏切りだというジェリー。質問に答えただけだと言うケイティ。大喧嘩となる二人。

ジェリーの部屋を訪れたケイティは言う。
「私は味方だが、被害者を責めるだけでは無罪は勝ち取れない。意見が衝突した時には大人としての対応がある。マフィンを投げたり殴ったり、倒れた人を前に勝利の舞を披露したりしない。根本にある原因を考えて欲しい。許されない行為ではあるが、陪審に許してもらうのだ」と。

検察側の最終弁論
被告人はマフィンを投げ、被害者を殴って鼻を折り気絶させた。さらに心配する様子もなく踊った。歌って踊り"かかって来い"と周りを挑発した。
"暴力的で反省の色もない犯罪者"これが彼を表す言葉だ。
法的な定義は"加重暴行"だ。